【書評】『任意の夜n』いつか床子 編

「ひとりで過ごす夜のすべては冒険である」と仮定する。

この夜のどこかに本当に、誰かひとりでいるのか。
任意の夜nにおいて、その実在を証明せよ。(7点)

という文章を冒頭に本書は始まる。
あとは命題に対する解として18名分の任意の夜”n”が掲載されているだけのシンプルな構成だ。
インタビュー形式ではあるものの、聞き手は文中に全く登場しない。加えて、話し手が喋っているのをそのまま聞き書きしたような書き方なので、話し手は”話し手”というか”語り手”といった方が良い気がする。語り手は、ネイリスト、CA、写真家、編集者、大学教授、主婦、居酒屋で会った行きずりの人まで、多様なアイデンティティを持つ人々だと想像できる。

命題の「この夜のどこかに本当に、誰かひとりでいるのか。」という一文について考えてみる。
寝れない夜に自分の他にひとりのものはいないかと探しているような感傷的な気持ちがこもっているのだと思うが、しかし、集まった18名の解はそれに寄り添わない。そんなセンチメンタルな夜の話は登場しないし、そもそも夜のことを一貫して話題にしている人が少ない。

n=8 黒電話」という話で一番驚いた。
“あのね、私は六十六歳なんですけど、かれこれ四〇年前に好きになった男がいます。”と語り出し、若い頃テレビに出演していた話、そこで出会った年上の男性の話になり、“男ってみんな最低だと思う。”という結論付けで終わり、夜の話が全く出てこないのだ。

n=8は顕著な例ではあるけれど、他の話も結構な割合で、言葉を重ねるうちに脱線して、段々とその時語り手自身がどういった環境にあってどのような気持ちで日々過ごしていたのかというのに話題が移っていく。編者はどういうつもりなのだろう。ひとりだった夜の話をきっかけにしていても、全体で見ると過去のある時の話になっている人が多いと感じる。
こうなるのは恐らく編者がそう編集したからだ。命題を読む限り、編者は自分もある時そう過ごしたように、ある人がひとりで過ごした孤独な夜について集めてみたかったのではないのか。なぜ、夜の話だけに編集しなかったのか。多分、この人は、何名かの話を聞いているうちに気が変わってしまったのだ。ひとりの夜の話は、思ったより寂しい話ばかりではなかった。夜に関係なくなっても話は面白い。だとか思ったのだ、きっと。
ページを進めるほどに、個人史の断片の集まりだと思うようになった。
『断片的なものの社会学』(朝日出版社,2016)で社会学者の岸政彦が言う、ある一瞬訪れその後無意味になる断片的な出来事が、本書では”ひとりの夜”という言葉をきっかけに語られ、記録されている。
ゆらゆら帝国の「昆虫ロック」という曲に、“ぼく綺麗な虫のように生きたいんださりげなく ただそこにある物のように”という歌詞がある。
編者は最初の命題以外に顔を出さず、どういった意図で本書を作り、出来上がったものにどういった価値を付したのか、明確には分からない。だからこそ「昆虫ロック」で歌われているように、ただそこにあった人生が断片的にあるだけに思えて好感を抱くのだ。