公と私 星野文月

ばんぶんぼん!は作家の小原晩、星野文月とBREWBOOKS尾崎大輔の3人によるリレー連載です。3人で話してみたいテーマを持ち寄って、自分の思うこと、ふたりに聞いてみたいことなどを書いていきます。連載のタイトルは3人の名前や愛称をくっつけました。


文・写真・題字:小原晩/星野文月/尾崎大輔
キービジュアル:モノ・ホーミー

ばんちゃんがメジャーデビューしたこのタイミングで、このテーマおもしろいね。実際に商業出版をしてみて気持ちが変化したことや、特に変わらなかったことを今度また聞いてみたいです。

私は最初に出した本の『私の証明』が、いわゆる商業出版と呼ばれる形態だったけど、自分の実感としてはあまり気持ち的な変化は無かったというか、実際は自分に何が起きているのかよくわからないままことが進み、本ができあがり、そして気がついたら出版していたという感じで(もちろんすべて同意の上で進んだことです)、出版のいろいろが終わった後に「あ、世に出たんだな」とわかった、という感覚でした。

ごく私的なものを私は書いて、「こんなものを人に見せて大丈夫だろうか」とか「これを本としてお金をいただいて出版する意味とは……」みたいなことをずーっと(出版されたあとも)考え続けていました。
自分の中は答えのない不安でいっぱいだったけれど、私が書いた本は、それこそBREWBOOKSをはじめ、いろいろな人たちが背中を押してくれて、あたたかく受け入れてくれた感覚がすごくあった。
だから、これから私は、個人的なことを書いていく人たちをひたすら肯定していこう、と「公」にたいする態度が自然と決まっていったような気がします。

私はごく私的なことしか書くことができないので、規模や主語が大きな話や、〇〇論、みたいな文章を読むと、未だに「こんな個人的なことを書いて残す意味はあるんだろうか」と自信を失いかけることがありますが、即座に「公」の私が「いや、あるんだよ!!」と叱責してきます。「公」の星野文月は、そういう風に言うべきだからです。
前回ばんちゃんが、”「あの頃の自分」に届け!と思って、ものを書いている”と言っていたけど、たぶんそれと似ていて、あの頃の自分が一番かけて欲しかった言葉を自分に今でもかけ続けているんだと思う。

そういえば、前にトークイベントでばんちゃんが「エッセイを書くよりも、小説を書く方がより自分が色濃く出てしまう」って言ってたのすごくおもしろかったな。
たしかに小説すばるに書いていた『発光しましょう』はところどころに、凝縮された「私」の気配が感じられた気がするし、そこにどきっとした。
私もフィクションをたまに書いたりするけど、結局は自分の中にあるものしか書けないから、そういう自分のかけらを取り出して、磨いたり、加工しようと工夫しているうちに全体的に「自分」の核みたいなものがフィクションの内側にどっしりと表れてしまうのかもしれないね。
以前は、フィクションは何でも書けるからきっと自由なんだろうと勝手に思っていたけど、実際に取り組もうとしてみると自分の内側にあるものにひたすら向き合わなくてはいけないということに気がつきました。そして、それを「自由に書く」というところまで持っていくための労力の大きさを知った。
だけど、人が書いたものを読むと、「私も書きたいな」って気持ちが湧いて、自分の中にあるものが少し動きだすのを感じます。


星野文月 / Fuzuki Hoshino

作家。著書に『私の証明』『プールの底から月を見る』など。me and you little magazine & clubにて「呼びようのない暮らし」を連載中。